承久の乱以前と、以後の幕府は全く別物だといってもいいでしょう。
この戦いの勝利によって幕府と朝廷の公武二元支配が、幕府優位に傾いたからです。
それでは、この戦いの詳細について書いていきます。
1219年1月、実朝が暗殺されると、後鳥羽上皇の、親朝廷の実朝が親王将軍を補佐することによって、幕府を朝廷の下に置くという目論見が外れてしまいます。また、それを推し進める役どころであった源仲章も実朝と一緒に暗殺されてしまい、すでに後鳥羽の計画は完全に崩壊したのでした。
さて、実朝が死ぬと源氏の正統は絶え、次の将軍を誰にするかという問題が出てきます。
ただ、このとき権力を持っていたのは北条氏でしたが、北条氏が将軍にはなることはできませんでした。これは、身分の差というものがあるからです。平氏の流れを汲んでいると言ってはいるものの、実は確証がなく、時政以前の家系は不自然なものが多いのです。だから、実際はたいした身分のない伊豆の一在庁官人であったということができます。このようなたいした名族でもない北条氏が他の御家人を抑えて上に立つというのは、当然御家人たちの反発心を生むこととなります。(つまり、源氏の貴種頼朝の命令には従うが、もともと同じ御家人である北条氏には従わないということ。)、
親王を将軍にしようという計画がありました(実朝存命中は後鳥羽もそれを望んだ)が、実朝の暗殺された今となっては上皇にメリットはなく、逆に朝廷と対等の立場を幕府に与えてしまう(ぶっちゃけ、将軍は朝廷の家来だけど親王は天皇の家来ではないから)ので上皇は反対します。
さて、このとき後鳥羽上皇は親王を派遣するときにある条件を出しています。これは、摂津国長江庄、倉橋庄の地頭の免職、停止を求めるというものでした。しかし、幕府はこれをかたくなに拒絶します。本領安堵された(つまり、お墨付きということ)土地は、よほどの重罪人とならない限り没収されないという原則があったからです。この話を承久の乱の布石と見ると、畿内を院政勢力で固めるという意味があったでしょう。その証拠に、和泉、河内(共に現在の大阪)の守護が、このころ流行していた熊野詣の時に上皇が通ると、饗応(もてなし)で負担が大きいという理由の為に廃止されているからです。これによって畿内はほとんど朝廷側で埋められたのです。
しかし、親幕派の公家西園寺公経の運動によって、親幕派の九条家より左大臣九条道家の子三寅(のち元服して頼経)が派遣されることとなるのです。
しかし、上皇はあくまで権力回復にこだわります。白河法皇の時に作られた警備軍、北面の武士に習って西面の武士を創設したり、景勝四天王寺によって関東を調伏(簡単に言うと相手をまかすまじないのようなもの)したりというものです。そして、これは朝廷の力はいまだに強いという意識の現われともいえるのです。